ジャグリング・ユニット・フラトレス第4回公演『ボーダーライン』
先日、無事本番を終えました。ご来場頂いた皆様、関係スタッフ、キャストの皆様、本当にありがとうございました。
番外公演も含めると6作目となる今回の『ボーダーライン』。前回公演『二階建ての家』よりも、それこそもっと前の短編『コトリは歌う』よりも先に書き始めた。かれこれ3年前になる。
今までやらなかったのには理由がある。出来ないと思ったから、力が足りないと思ったから。
ジャグリング的な演出を行うにあたって求められる技術力、それは各道具の幅広いスキルであったり、単純に技の難易度だったりした。そして今回特に必要だった他分野のスキルが、マイムと殺陣の2つだった。技術を身に付ける為に2年間マイムラボセカンドに通った。殺陣のある舞台に複数参加し、習いにも行った。でもそれだけやってもきっと足りなかった。フラトレスは個人技では成り立たない。いくら一人で強くなっても何の役にも立たない。集団を動かす人間としての必要な何かが不足していた。
具体的に名前を出す。僕はマイムの師匠でもある いいむろなおき氏の影響をたくさん受けている。単純なマイムの技術ではない。その分野に対する情熱、理論立てられた行動そして仲間への深い敬意と愛情だ。集団とは何かについて暫く悩んでいた。1つの目的に向かって進むことさえできればいいと思っていた。師から学んだ事と、そこに通う仲間から学んだ事の多さは計り知れない。この公演に携わるみんなの事をもう1つずつ好きになれた気がする。
そしてこの公演を今までやらなかったのにはもう1つ理由がある。
怖かったからだ。
脚本家にもよるが、台本は自信の体験に基づいて綴られることがある。僕はどちらかと言えばそのタイプだ。
過去に人を傷付けたことがある。
敢えて言うなら事故だった。けれど間違いなく自分の手だった。その手は偶然にも綺麗なままで、自分と違う個体から赤い液体が滴っていることに暫く気が付かなかった。可能な限りの平静を。心に枷をかけ、無意識に行動の制限を作ったことは間違いない。人に近づくことを、触れることを、可能な限り避けるように。必要があれば海面に顔を出すけれど、出来れば人の手が触れることの出来ない深い深い水底に居たかった。
でも僕は魚じゃない、人だ。そんな風に生きられるように生まれていない。どうしても求めてしまう、人を。空気を。脳と目は、水面から真っ直ぐに差し込む光の先を見ることが出来るのに、心と身体は、水の比重より重く、その方向に向かうことを許さない。それこそ、海面近くを漂う弱い小魚たちが群れて行動している姿すら僕には憧れだった。僕は多分もっと深いところから世界を見ていた。
人と深く接することは、僕にとって恐怖だった。
救われたかった。辿り着く手段をたくさん求めた。ただ、どれだけ出来る事が増えても、普通の人が障害だと意識せず当たり前に越えられる境界を僕は越えることが出来ない。悔しくて、辛くて、でも声を発して助けを求めることすら出来なかった。
それでも今があるのは、他でもない、差し伸べてくれる人の手が絶えなかったからだ。その手すら、退化した腕ではまともに掴み返すことすら出来なかったのだけれど。
そんな僕は、引き揚げるのにずいぶん時間がかかったでしょう。それはそれは深いところに居たのだから。小魚ではなく、人の質量を持っていたのだから。
この作品をやることで、自分の中に沈む狂気が水面から顔を出してくるのではないだろうか。そんな不安を抱えていた。隠せないほどの身体の震えと、行動の制限。その全てが克服されたわけではないけれど、随分と耐えうる身体になった。
今は波も穏やか、でも海は何かの拍子に荒れたりもする。油断したらまた沈んでしまいそうなくらい不安定な身ではあるけども。きっと今、僕は自分の意思で動くことが出来る。生きるべくして生きる場所に居る。
何をしようか、何を考えようか。折角、自由に動く手足を持っているのだから。
脳に思い描く風景を
手を使って言葉を綴り、道具を携え。
足を使って舞台に立ち続けたいと思う。
舞台の向こう側に居る人へ
目を、耳を、肌を使って、作り出したその風景を感じてほしい。ただ、弱いから一人では舞台に立てない。道具と、仲間と一緒に行動する。共に回遊できる群れを見つけたから。
そこだけは、魚と同じように。
ジャグリング・ユニット・フラトレス 代表 宮田直人
